丹後の史跡
二十四話 「幾地地蔵山遺跡」 | |
平成22年11月29日撮影 “幾地地蔵山遺跡”です。 |
12月は、中世のさまざまなタイプのお墓が作られている非常に貴重な遺跡を紹介します。 弊店から南へ“500m”位の所にある『幾地地蔵山遺跡』は、我が町「与謝野町幾地」が古くから栄えていた事を証明する遺跡です。 地蔵山遺跡では、鎌倉時代から室町時代(12世紀〜16世紀)にわたって、色々なタイプのお墓が作り続けられて来ました。言い換えれば、この山(墓地)を何百年もの間ずっと守り続けるだけの基盤を持つ集落があったと言うことが考えられ、この場所に中世の大規模な「市場」の存在が浮かび上がります。墓地の存在がそのまま大規模な「市場」の存在する証拠になるものではないかと考えられます。 私達の町も昔は「市場村」でした。 地蔵山遺跡は、京都府与謝郡与謝野町字幾地小字井根ノ谷に所在し、旧野田川町では昭和62年10月12日に町指定文化財に指定して、平成10年度より5ヶ年計画で調査しました。 時代 鎌倉時代〜江戸時代初頭まで。 規模 「南北265m、東西205m」の中に、272基の石造物が立 ち並んでいます。 種類 「集石墓・塚墓・火葬土壙墓」などが有り、他に「経塚・石 塚」があります。 特に「塚墓」は、集石墓と違い大変珍しい作りなので、身 分の高い有力者のお墓と考えられ、京都府北部ではあ まり見られないタイプのお墓で、大変貴重なものとの事 です。 古い時代から、謎の多い伝説がかたる“丹後王国”へ、是非一度お立ち寄り下さい。 平成22年12月 |
二十一話 「天橋立の橋立小女郎」 | |
平成22年7月26日撮影 “天橋立の橋立小女郎神話”です。 |
9月は、日本三景の一つ「天橋立の橋立小女郎」神話を紹介します。 弊店から西へ“車で15分”位の所にある『天橋立』は、我が町「与謝野町」を流れる『野田川』によって運ばれた砂で、宮津湾の潮流によって出来たとされています。 橋立小女郎神話 むかし、橋立に一匹の狐が住みついており、女の姿に化けては、そこを通る人や、舟で仕事をしている人たちを、毎日のように、たぶらかしておった。 女にしか化けないということから、人々はその狐を、橋立小女郎と呼び、「橋立で声かける女衆がいたら、それは、きっと橋立小女郎だで、化かされるな」と、いつもいいあっていたが、小女郎の方が一枚上手なのか、あいかわらずだまされては、みんなが腹をたてておった。その悪さも、だんだん、だんだん、ひどくなってきたので、成相寺の下の方に住む若者が、何とかこらしめてやろう…と考えた。ある夕暮れ、その若者は、狐の大好物の油揚げを持って橋立へ行った。そして、明神さんのあたりまで来た時、案の上、ひとりの娘が声をかけてきた。若者は、「お前は、小女郎だろう。化かされる前に、この油揚げをやる」といって、松の根っこのところへ置いてやった。小女郎は、何かたくらんでるなと、若者をにらんでおった。「な、小女郎、わしをずうっと化かさんと約束できるなら、その油揚げを、むこう十日間、毎日持って来てやるが、どうだ」小女郎は、油揚げ十枚という、その言葉にぱっと狐の姿に戻り、「約束する。油揚げ十枚だな。きっとだな」といって、油揚げをくわえて素早くかくれてしまった。 あくる日から、若者は約束通り、毎日毎日油揚げを橋立明神のそばまで運んでやった。 そして五日日になると、そのうまさが待ち遠しいのか、明神さんの前で小女郎が待つほどになり、若者への警戒心もなくなっておった。 そして、十日目。最後の一枚を持って来た時に、若者が聞いた。「な、お前は化けるのが、本当にうまいが、どうして化けるんじゃ」小女郎は、油揚げを食いながら、ちょっと考えていた。食いおわると、「目をつぶっとれ」そういうて、どこから出したのかきれいな玉を見せてくれた。若者は、これが噂に聞く狐の玉かと思ったが、「この、きれいな玉は、何だ」と聞いた。狐は、「これは明神さまからもらった玉じゃ。これ持っておるから、人間に化けられるんじゃ」そういうた。まってましたとばかり、若者がいうた。「な、小女郎、その玉を一日でええから、貸してくれ。そうだな…、そのかわり、約束の油揚げはもうしめえだが、ん、明日、いっぺんに三枚もって来たるで」小女郎は、明日から、もうもらえんと思っていた大好物を、三枚もいっぺんにもらえる嬉しさのあまり、「一日だけだぞ。きっと。油揚げ三枚だぞ」といって、玉をひっこめた。 あくる朝、約束通り油揚げ三枚と狐の玉は交換された。若者は家へ飛んで帰り、その玉を、わからないように隠した。 そして、二日目の朝がすぎ昼になった。小女郎は若者が返しに来んのでおかしいと思いはじめ、夕方になって、はじめてだまされたと気ずいた。何としても取り返さねばと思ったが、玉がないから化けられん。そこで人が寝しずまる夜中をまって村へ行き、若者の家をさがして、その天井にひそんでおった。 次の朝、若者が出かけると、小女郎は家の中をひっかきまわして、そして、やっと玉を取り戻した。帰ってきた若者は、玉が取り返されたと知ると、「しやあねえ、こうなりゃ、あの手だ…」とつぶやいて、近くの神社へ走り、神主さんに訳をいって、神主さんの衣裳と御幣を借りた。それをかかえて橋立まで行き、木の陰で神主さんの衣裳をつけ、顔は目だけをだして白い布でつつみ、ゆっくりと松並木のあいだを歩いていった。そして、明神さんの前で立ちどまり、おごそかな口調で、「小女郎、おるなら、出ませい」といった。小女郎は、何ごとかと思って、そばの穴から、ぬうっと顔を出した。とたんに、「頭が高い」と御幣で頭をひと打ちされた。びっくりして穴にひっこんだ小女郎に、「そのほうに授けた大切な玉を、人間に貸すとは不屈千万。今かぎり玉を取りあげる。玉を差し出せ」と強い口調でいった。小女郎は、明神さまだと信じて疑わず、穴の中から手だけが、そおっと出て玉を置いた。若者は、おもむろに玉をふところに入れて、又、ゆっくりと帰っていった。 それ以来、橋立で狐に化かされたという話は、もう聞かんようになった。 謎の多い伝説がかたる“丹後王国”へ、是非一度お立ち寄り下さい。 平成22年9月 |
十四話 「小野小町伝説」 | |
平成22年1月31日撮影 “小野小町”の墓です。 |
2月は「小野小町伝説」を取り上げました。 弊店から北東へ“車で20分”位の所にある、『小野小町伝説の“五十河”』は、京丹後市と与謝野町・宮津市の境にある“鼓ヶ岳”と、『ガラシャ夫人の“味土野”』に近い標高620mの“高尾山”の、麓にある小さな美しい仄々とした集落です。 古い歴史をもつ“丹後”は、『天の橋立・成相寺他』多くの史跡や、有名人が出ています。 小野小町もその一人で、老いてなお一人で旅するのも、なにか深いわけが有りそうですね。 絶世の美女としても名高い小野小町は世界の三大美女とも言われ、平安時代前期9世紀の女流歌人で「六歌仙・三十六歌仙」の一人、百人一首は有名ですね。 「小野小町伝説」は色々な説がありますが、ここではこの説( http://kinmirai.hp.infoseek.co.jp/0118.htm)を簡単に紹介します。“小野小町”が開墓として建立された曹洞宗『妙性寺』に伝わる、『妙性寺縁記』は、江戸時代後期に妙性寺第三代住職の「雲騰民龍」が記録したものです。 ある日小町は、天橋立をめざして都から旅にでます、福知山まで来た時に「上田甚兵衛」と言う人に出会います。身分を明かした小町は、彼の住む「五十河」に行くことになりました。 その後、小町は「天橋立・文殊堂・成相寺」などを参詣したいと、五十河を出発します。 天の橋立の阿蘇海へ越える長尾坂まで来た時、思いがけずに腹痛を起こして動く事が出来なくなってしまいました。 やむを得ず、参詣は次の機会にと「上田甚兵衛」に背負われ、五十河に戻りますが亡くなったとの事です。 滞在中に小町は、この地に多かった火事で困っている村民たちに、当時の地名「五十日」を『「五十河」に変えたらよいでしょう』と教え火事を鎮めた他、女性が安産できるようになった恩人とされています。 また、小町は丹後水軍の血筋とも言われ、小野氏の荘園がこの「三重郷五十河」の地にあったとの説が有ります。 すべての伝説には史実とロマンがあり、伝説がかたる丹後王国の謎は多いです。 平成22年2月 |
五話 「ガラシャ夫人」 | |
平成21年3月29日撮影 |
4月は、明智光秀の三女「ガラシャ夫人(細川玉子)」です。 弊店から北々東へ車で約60分のところに有る、「ガラシャ夫人隠棲地」に行って来ました。 丹後半島のほぼ中央に位置する、奥深い山中の中腹にある見晴らしの良い場所で、如何にも「隠棲地」らしい・・・土地柄。 現在の京丹後市弥栄(やさか)町味土野(みどの)で、昭和初期には約40戸が現在では3戸に減り、5人が暮らしています。その昔「平家の落ち武者」が移り住んだとの、言い伝えもあります。 戦国時代に翻弄され、数奇な運命に彩られた玉子ですが、戦乱の世に咲いた「一輪の花」として、現代に語り継がれています。 宮津藩主だった細川忠興は、明智光秀の「本能寺の変」に誘われるがこれを聞かず「玉子を守る為、離別し家臣と侍女を付け味土野の地に隠棲」し、羽柴秀吉軍となり光秀と山アで戦った。 愁思のうちに2年の月日をこの地で過ごすが、秀吉はこれを憐れみ「忠興との復縁」を許し、忠興は再び妻として迎えた。 多くの試練は玉子の心に変化があったのでしょう、1587(天正15)年に心の拠り所を求め、キリスト教の洗礼を受け「細川ガラシャ」となる。3人の子を授かり平穏な日々でしたが、1600(慶長5)年の「関が原の戦い」で東軍に付いた忠興の留守中に、石田三成の「人質としての大阪城入城要請」を断った為、大阪細川邸に於いて壮烈な最期をとげました。 忠興は大変な戦上手で政治家としても優れていた為、乱世からも細川家を守れたのでしょう、「関が原の戦い」で勝利し「宮津藩から豊前小倉藩初代藩主となり熊本藩細川家初代」で細川家の基を築きました。 元総理大臣の「細川護熙氏」は「細川忠興の子・熊本藩主細川忠利から数えて15代目」で、丹後人にすれば興味深いです。 京に近い丹後は、歴史的にも面白い夢のある土地柄です。 平成21年4月 |
四話 「除福伝説」 | |
平成21年2月9日撮影 |
3月は、除福伝説をもつ地は日本全国20数箇所におよびますが、その中の一つ京都府伊根町新井崎の「除福伝説」を取り上げます。 弊店から北東へ車で約40分のところに有る、新井崎神社は除福をご祭神として祀っています。 紀元前221年、帝国の基礎を築いた秦王(始皇帝)は「やり残した仕事」が多く、あとしばらくの命がほしかった為、始皇帝は「東海の地の不老薬」の探索を、「除福」に命じ三千人が百隻もの船に分乗して、中国連雲港付近を船出したとされています。 除福が京都府伊根町新井崎の地で求めた「神薬」とは、「九節の菖蒲と黒茎の蓬」とされています。 「九節の菖蒲」は現在は絶えたが、「黒茎の蓬」は現在も存在していて【画像DE】です。 すべての伝説には史実とロマンがあり、伝説がかたる丹後王国の謎は多いです。 平成21年3月 |
三話 「山椒大夫、安寿と厨子王伝説」 | |
平成21年1月23日撮影 |
今回は、森鴎外の小説「山椒大夫」で有名な、「山椒大夫屋敷跡、安寿姫塚」を撮りました。 弊店から舞鶴方向へ車で30分くらいの所にある、宮津市由良の「山椒大夫屋敷跡、安寿姫塚」周辺は、宮津と舞鶴城下町の中間に位置し一級河川「由良川」が流れている地形で、古くから栄え「古墳」も多くあり「丹後王国」のロマン溢れる地域です。 小説「山椒大夫」の舞台は中世(天暦年間947〜956年)の頃で、【 高貴な身分の者が人買いにたぶらかされて長者に売られ、奴隷として辛酸をなめた後に、出世して迫害者に復習をする 】 と言う物語(説経「さんせう太夫」)を素材に書かれたとされています。 安寿と厨子王が、「汐汲み・柴刈」にと冷酷な苦難の送ったとされる「山椒大夫屋敷跡」や、悲運の最期をとげた「安寿姫塚」が、語り継がれています。 「山椒大夫」と言う名前については諸説あり、柳田国男氏の 【散所の大夫】 がいつしか物語自身の名になったと言う説、林屋辰三郎氏の散所を統括する 【散所の長者】 と言う説、地元では山椒大夫を土地の 【開発長者】 とする伝承もある。 いずれにしても、いまだ定説がないといったのが現状でしょうか。 詳しくは、下記を検索してください。 http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn15.html#sansyodayu1 平成21年2月 |
ニ話 「石川五右衛門」 | |
平成21年1月6日撮影 |
今回は、義賊で有名な「石川五右衛門」の出生地「伊久知城跡」を撮りました。 弊店から東へ500mの所に有るに城跡が、「石川五右衛門」の出生地であるとされる一説です。 この伊久知城は、丹後の守護大名一色義俊の家老で、石川左衛門尉秀門の居城でした。ところが天正十年の秋、豊臣秀吉の命を受けた細川幽斎の手よって、石川左衛門尉秀門は謀殺され、伊久知城も落城する。 この時、ニ男の石川五良右衛門と言う人が落城と共に姿をくらまして、後に京都に出て石川五右衛門となったと言う説があり、有力視されています。 この石川五良右衛門の姉で「坂根」と言う家に嫁いだ「石川菊寿」の子孫が現在もおられ、弊地には「坂根姓」が多いです。 フィクションに登場する五右衛門は、貧しい庶民に金をわかち与える「義賊」としても描かれています、大阪城に忍びこむなど「関白」の怒りをかい、京都の河原において釜煎りで処刑されました。 ここから昔の大きな釜の形をした風呂を丹後では、「五右衛門風呂」と言いご年配の方は使われていたと思います。 丹後は、京に近く歴史的に「ミステリアス」な事が多く、ロマン溢れる地域です。 平成21年1月 |
一話「平智地蔵」 | |
平成20年12月1日撮影 |
今回は「平智地蔵」を撮りました。 弊店から北へ1kmの京街道で平地峠(大宮町常吉)に有る、有名な「平智地蔵」のお話です。 京都府下で一番大きいとされ、高さ3.5mで台座を含むと5.05mです。重さは4.3トンで台座を含むと5.1トンあります。 峰山鱒留村の名石工「長谷川松助」によって天保4年に完成しました。 謎めいた建立の経緯は諸説あり、一説には「峠の往来安全を願った」との説と、有力なもう一説は・・・。 文政5年の「百姓一揆」で中心的な役割をはたした「吉田新兵衛 他」の人達は、文政7年宮津藩によって処刑されました。悪政を正したこの人達を供養する為の「建立」だったが、「意図的に隠す為」上記の説を常吉の人々が広めたと、言われています。 新兵衛さん達が「寒かろう」と、毎年11月23日には大勢の人達で「蓑」を掛け”冬支度”がされます。今年も、報道関係者が7社取材されていました。 公園には駐車場も整備され、良く手入れされていて綺麗な花も供えてありました。 平成20年12月 |
詳しくは、お気軽にお問い合わせ下さい。
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