丹後の史跡

二十四話 「幾地地蔵山遺跡」

平成22年11月29日撮影

“幾地地蔵山遺跡”です。

 12月は、中世のさまざまなタイプのお墓が作られている非常に貴重な遺跡を紹介します。

 弊店から南へ“500m”位の所にある『幾地地蔵山遺跡』は、我が町「与謝野町幾地」が古くから栄えていた事を証明する遺跡です。

 地蔵山遺跡では、鎌倉時代から室町時代(12世紀〜16世紀)にわたって、色々なタイプのお墓が作り続けられて来ました。言い換えれば、この山(墓地)を何百年もの間ずっと守り続けるだけの基盤を持つ集落があったと言うことが考えられ、この場所に中世の大規模な「市場」の存在が浮かび上がります。墓地の存在がそのまま大規模な「市場」の存在する証拠になるものではないかと考えられます。
 私達の町も昔は「市場村」でした。

 地蔵山遺跡は、京都府与謝郡与謝野町字幾地小字井根ノ谷に所在し、旧野田川町では昭和62年10月12日に町指定文化財に指定して、平成10年度より5ヶ年計画で調査しました。
時代  鎌倉時代〜江戸時代初頭まで。
規模  「南北265m、東西205m」の中に、272基の石造物が立      ち並んでいます。
種類  「集石墓・塚墓・火葬土壙墓」などが有り、他に「経塚・石     塚」があります。
     特に「塚墓」は、集石墓と違い大変珍しい作りなので、身     分の高い有力者のお墓と考えられ、京都府北部ではあ     まり見られないタイプのお墓で、大変貴重なものとの事      です。

 古い時代から、謎の多い伝説がかたる“丹後王国”へ、是非一度お立ち寄り下さい。

平成22年12月



二十三話 「岩見重太郎」

平成22年7月26日撮影

“天橋立の岩見重太郎が試切りをした石”です。
 11月は、日本三景の一つ天の橋立で、敵討ちを果たした「岩見重太郎」伝説を紹介します。

 弊店から西へ“車で15分”位の所にある『天橋立』は、我が町「与謝野町」を流れる『野田川』によって運ばれた砂で、宮津湾の潮流によって出来たとされています。
 この天の橋立では、多くの「伝説・神話」が残っておりますが、「岩見重太郎伝説」もその一つです。

岩見重太郎は、桃山時代に筑前の国(現在の福岡県)の小早川家に仕えた岩見重兵衛の子として生まれた豪傑です。

 岩見重太郎という豪傑が諸国を漫遊しながら各地で「狒々や大蛇」を退治し、父の仇を宮津の天橋立で討ったという伝説は、数十年前までは多くの人々に知られていたもので、現在でも天橋立には仇討の碑があり、その周辺には岩見重太郎に関連する史跡が残っています。
 岩見重太郎は実在の人物であったのですが、伝説の成立過程において、講釈師らの手により各地に残る豪傑の伝説と結びつけられました。その結果、岩見重太郎の「狒々退治伝説」は、全国各地に残っています。
 筑前小早川家の臣で、父の仇である広瀬軍蔵ら三人を追って宮津まできた岩見重太郎は、1632年にこの付近で3人を討ち倒し、その本懐を遂げたと伝えられています。この武勇をもって豊臣秀吉に仕えたとも言います。近くには、仇討ちの前に岩見重太郎が刀の試し切りをしたと伝えられている試切りの石もあり、石の上の部分がバッサリと斜めに切れて落ちています。

 その後、豊臣家に仕えた岩見重太郎でしたが、大阪夏の陣で討ち死にしています。

 謎の多い伝説がかたる“丹後王国”へ、是非一度お立ち寄り下さい。

平成22年11月



二十二話 「天橋立の橋立神社・磯清水」

平成22年7月26日撮影

“天橋立の橋立神社・磯清水”です。
 10月は、日本三景の一つ「天橋立の橋立神社・磯清水」神話を紹介します。

 弊店から西へ“車で15分”位の所にある『天橋立』は、我が町「与謝野町」を流れる『野田川』によって運ばれた砂で、宮津湾の潮流によって出来たとされています。

 「橋立明神」は現在は、「天橋立神社」と呼ばれている。伝承では吉佐宮の故地ともされる超古社である。
 橋立の松林中にある橋立神社は往古から、橋立明神として知られ、その本地仏が有名な文殊菩薩であって、今の文殊智恩寺がそれである。橋立神社は、籠神社の祭神の一柱である海神(竜神)を祭った社である。

 霊泉・磯清水に付属した神社と思われ、それが現在地にあったか、あるい南の今の文珠堂の地にあったか、それとも北の真名井神社か籠神社の地にあったか。それはわからないが、現在もその三地点に霊地があるように、太古もそうであったのかもわからない一連の関係深い霊地のようである。何も一ケ所だけであったとも思えないし、三地は時代時代の力関係で主たる霊地とされるところが移動したと思われるが、磯清水に最も近い所こそが発祥ではなかろうか。このあたりが吉佐宮だと伝承は伝えている。吉佐宮は伊勢外宮の旧地、元伊勢である。
 主祭神の豊受大神は、その通りなのだろう、なにせここは元伊勢なのだから。大川大明神が気になるが何物かわからない。八大龍王は竜神で海の神様と言われる。

 「磯清水」は千金の井戸と言われ、神の世の井戸である。天橋立内の「橋立明神」の脇にある井戸で、神社の向かって左側にある。
 両者は本来は一体のもので、神社よりもずっと古いこの霊泉を祀るのが橋立明神だったと思われる。霊泉こそが主だと考えるが、後世では関係がたいていは逆転しているし、最近では両者とも忘却の彼方へと追いやられているようにも思われる。
 ここだけではなく海の中でも真水が噴き出す地点があるという。周囲の山からの地下水がそこへ吹き出てきているわけであるが、橋立の場合は、そこへ上手な具合に砂嘴ができてきたわけである。自然の不思議としてはあり得るのである。こんな海の中に真清水が涌くとは…、太古の人々としては有り難い神が作りたもうたものと受け取り特別に神聖視したことであろう。
 この井戸「磯清水」は、四面海水の中にありながら、少しも塩味を含んでいないところから、古来不思議な名水として喧伝されている。そのむかし、和泉式部も「橋立の松の下なる磯清水都なりせば君も汲ままし」と詠ったことが伝えられているし、俳句にも「一口は げに千金の磯清水」などともあることから、橋立に遊ぶ人びとには永く珍重きれてきたことが明らかである。
 延宝六年(一六七八)、時の宮津城主永井尚長は、弘文院学士林春斎の撰文を得たので、ここに「磯清水記」を刻んで建碑した。この刻文には丹後国天橋立之磯辺有井池清水涌出、蓋有海中而別有一脈之源乎、古来以為勝区呼曰磯清水、云々とある。
 湧き出る清水は今も絶えることなく、橋立を訪ずれる多くの人々に親しまれ、昭和六十年には環境庁認定「名水百選」の一つとして、認定を受けている。

以下は『丹後与謝海名勝略記』(貝原益軒)の記事です。
【橋立大明神】 本社豊受太神を祭る左は大河大明神、右は八大竜王を祭る。拝殿三間四面此一宇宮津城主の建立所也。今有所正徳年中奥平昌春の建立なり。
詞花集幟上  浪立る松の下枝をくもてにて  かすみ渡れる天の橋立 (源 俊頼)
千載集独旅  思ふことなくてや見まし與佐の海の  天の橋立都なりせは (赤染衛門)
拾遺愚艸  ふみもみぬいく野の與佐に帰る雁  かすむ波間のまつと伝へよ (定家)
名寄  與佐の海のうちとの浜に浦さひて  うきよを渡る天の橋立 (曽根好忠)
夫木抄  はるかなるねの日の崎に住あまは  海松をのみひきやすよすらん (よみ人しらす)
浦塩艸  浜の名に君かわはひのあらはれて  のとけき波も万代の聲


【磯清水】 社の西にあり、井欄永井尚長建立建立弘文院記作る郷談有(かえり点)言和泉式部和歌云々。しかれとも幽斎の歌なり。
衆妙集  與佐の浦松の中なる磯清水  みやこなりせは君も汲みん  (法印玄旨)

 謎の多い伝説がかたる“丹後王国”へ、是非一度お立ち寄り下さい。

平成22年10月



二十一話 「天橋立の橋立小女郎」

平成22年7月26日撮影

“天橋立の橋立小女郎神話”です。

9月は、日本三景の一つ「天橋立の橋立小女郎」神話を紹介します。

 弊店から西へ“車で15分”位の所にある『天橋立』は、我が町「与謝野町」を流れる『野田川』によって運ばれた砂で、宮津湾の潮流によって出来たとされています。

橋立小女郎神話

 むかし、橋立に一匹の狐が住みついており、女の姿に化けては、そこを通る人や、舟で仕事をしている人たちを、毎日のように、たぶらかしておった。
女にしか化けないということから、人々はその狐を、橋立小女郎と呼び、「橋立で声かける女衆がいたら、それは、きっと橋立小女郎だで、化かされるなと、いつもいいあっていたが、小女郎の方が一枚上手なのか、あいかわらずだまされては、みんなが腹をたてておった。その悪さも、だんだん、だんだん、ひどくなってきたので、成相寺の下の方に住む若者が、何とかこらしめてやろう…と考えた。ある夕暮れ、その若者は、狐の大好物の油揚げを持って橋立へ行った。そして、明神さんのあたりまで来た時、案の上、ひとりの娘が声をかけてきた。若者は、「お前は、小女郎だろう。化かされる前に、この油揚げをやる」といって、松の根っこのところへ置いてやった。小女郎は、何かたくらんでるなと、若者をにらんでおった。「な、小女郎、わしをずうっと化かさんと約束できるなら、その油揚げを、むこう十日間、毎日持って来てやるが、どうだ」小女郎は、油揚げ十枚という、その言葉にぱっと狐の姿に戻り、「約束する。油揚げ十枚だな。きっとだな」といって、油揚げをくわえて素早くかくれてしまった。
 あくる日から、若者は約束通り、毎日毎日油揚げを橋立明神のそばまで運んでやった。
 そして五日日になると、そのうまさが待ち遠しいのか、明神さんの前で小女郎が待つほどになり、若者への警戒心もなくなっておった。
 そして、十日目。最後の一枚を持って来た時に、若者が聞いた。「な、お前は化けるのが、本当にうまいが、どうして化けるんじゃ」小女郎は、油揚げを食いながら、ちょっと考えていた。食いおわると、「目をつぶっとれ」そういうて、どこから出したのかきれいな玉を見せてくれた。若者は、これが噂に聞く狐の玉かと思ったが、「この、きれいな玉は、何だ」と聞いた。狐は、「これは明神さまからもらった玉じゃ。これ持っておるから、人間に化けられるんじゃ」そういうた。まってましたとばかり、若者がいうた。「な、小女郎、その玉を一日でええから、貸してくれ。そうだな…、そのかわり、約束の油揚げはもうしめえだが、ん、明日、いっぺんに三枚もって来たるで」小女郎は、明日から、もうもらえんと思っていた大好物を、三枚もいっぺんにもらえる嬉しさのあまり、「一日だけだぞ。きっと。油揚げ三枚だぞ」といって、玉をひっこめた。
 あくる朝、約束通り油揚げ三枚と狐の玉は交換された。若者は家へ飛んで帰り、その玉を、わからないように隠した。
 そして、二日目の朝がすぎ昼になった。小女郎は若者が返しに来んのでおかしいと思いはじめ、夕方になって、はじめてだまされたと気ずいた。何としても取り返さねばと思ったが、玉がないから化けられん。そこで人が寝しずまる夜中をまって村へ行き、若者の家をさがして、その天井にひそんでおった。
 次の朝、若者が出かけると、小女郎は家の中をひっかきまわして、そして、やっと玉を取り戻した。帰ってきた若者は、玉が取り返されたと知ると、「しやあねえ、こうなりゃ、あの手だ…」とつぶやいて、近くの神社へ走り、神主さんに訳をいって、神主さんの衣裳と御幣を借りた。それをかかえて橋立まで行き、木の陰で神主さんの衣裳をつけ、顔は目だけをだして白い布でつつみ、ゆっくりと松並木のあいだを歩いていった。そして、明神さんの前で立ちどまり、おごそかな口調で、「小女郎、おるなら、出ませい」といった。小女郎は、何ごとかと思って、そばの穴から、ぬうっと顔を出した。とたんに、「頭が高い」と御幣で頭をひと打ちされた。びっくりして穴にひっこんだ小女郎に、「そのほうに授けた大切な玉を、人間に貸すとは不屈千万。今かぎり玉を取りあげる。玉を差し出せ」と強い口調でいった。小女郎は、明神さまだと信じて疑わず、穴の中から手だけが、そおっと出て玉を置いた。若者は、おもむろに玉をふところに入れて、又、ゆっくりと帰っていった。
 それ以来、橋立で狐に化かされたという話は、もう聞かんようになった。

謎の多い伝説がかたる“丹後王国”へ、是非一度お立ち寄り下さい。

平成22年9月



二十話 「天橋立」

平成22年7月26日撮影

“天橋立”です。

8月は、日本三景の一つ「天橋立」を取り上げました。

 弊店から西へ“車で15分”位の所にある『天橋立』は、我が町「与謝野町」を流れる『野田川』によって運ばれた砂で、宮津湾の潮流によって出来たとされています。

 日本三景の一つ・天橋立。海を二分し、宮津市文殊と府中を結ぶ、長さ約三・六キロの"白砂青松"の砂州。
 古代の人々は、天橋立が宮津湾(与謝の海)の潮流によって、砂が一ところに集められてできあがったなどとは考えもつかず「きっと神様が天と地を昇り降りするのにつけられた橋の一部だろう」−と考えたのも、天橋立の美しさを知る人なら納得できるだろう。この「天の掛け橋」の伝説はその素朴で陽気な古代人の心を余すところなくいまに伝えている。
 遠い神代の昔、日本の国をつくりに高天原から伊邪那岐命が伊邪那美命とやってきて、ホコで天の浮き橋の上から下界のドロをかきまぜ、そのホコを引きあげると、その先からしずくが落ち、固まっていまの日本の国ができあがった。
 この光景をみていた高天原の神々は、美しい国ができたと大喜びで「みごとな美しい国だ。ぜひとも行ってみたい」と下界の日本の国をみつめていると、ある神様が「降りて行きたいけれど道がない。一つ天御中主神さまにたのんでみよう」と、みんなでたのみにいった。すると、天御中主神は「つくってあげるけれど、本当に必要なときだけ、私ら神だけが使う橋だよ。むちゃくちゃに使うとたちまちこわれてしまうよ」といって、日本の国へ通じる橋をおつけになった。
 神々はまたまた大喜び。次から次へと、下界の日本の国をめざして橋を降りていった。着いたところがいまの宮津市日置といわれている。この日置のあたりにはきれいな娘さんがたくさんおり、天からゾロゾロ降りてくる神々を見て「神様たちがきて下さった」と感激。神々もきれいな娘たちを見てニッコリ。すぐ娘たちと仲よしになりいろいろな話をして楽しんでいた。
 すると娘たちは天につきぬける橋を見あげて「私たちも一度高天原へ行きたいわ。ぜひつれていって」−とせがみ出し、神々は大弱り。ことわってもあまりしつこくせがむので神々はしかたなく「そんならないしょで連れていってあげよう。だけど絶対声をたててはだめだよ」と娘たちを連れて橋を昇っていった。長くて高い橋を昇っていくにしたがって下界が眼下に広がり、言葉ではいい尽くせない美しさ。娘たちはおもわず「ワァきれい」と、感嘆のウズ。神々はもう真っ青。そのうちにガラガラッと大音響とともに橋がくずれはじめ、娘たちは放り出きれて散りぢり。もうあの天への掛け橋の姿はなく、その一部が日置の近くに浮いているだけ。その後、人々は天の掛け橋の一部を「天橋立」と呼ぶようになったという。

天橋立は、日本百選にも多数選ばれており、「名松」「白砂青松」「渚」「道」そして、真水の湧き出る井戸・磯清水は「名水」の百選に選ばれています。(日本の白砂青松百選、日本の道百選、日本の名松百選、日本の名水百選、日本の渚百選。)

謎の多い伝説がかたる“丹後王国”へ、是非一度お立ち寄り下さい。

平成22年8月



十九話 「成相寺」

平成22年6月28日撮影

“成相寺”です。

7月は「成相寺」(願う事必ず成り合う寺)を取り上げました。

 弊店から西北西へ“車で15分”位の所にある『成相寺』は、西国三十三所の二十八番札所で、寺伝によれば704年(慶雲元年)に、真応上人の開基で文武天皇の勅願寺となった、由緒ある真言宗単立の寺です。

 有名な雪舟(せっしゅう 1420〜1506年?)の『天橋立図(国宝・京都国立博物館蔵)』にも描かれているように、日本三景の一つ「天橋立」の北に位置し、その眺めは素晴らしく「風光明媚」で、車でもう少し上がった所にある「パノラマ天山展望台」は、とくに素晴らしく「能登半島や北アルプス白山」まで見る事が出来る所です。

成相寺の由来。
 一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修行中深雪の為、里人の往来もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となった。
 死を予感した僧は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈った。すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に狼の為傷ついた猪(鹿)が倒れているのに気付いた。僧として、肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、決心して猪(鹿)の左右の腿をそいで鍋に入れて食べた。
 やがて雪も消え里人達が登って着て、堂内を見ると本尊の左右の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散って居た。それを知らされた僧は観音様が身代わりとなって助けてくれた事を悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになった。
 此れよりこの寺を成合(相)と名付けたと言われています。

成相寺には貴重な文化財等が、多く現存しています。
重文

 『絹本著色紅波離阿弥陀像 一幅 鎌倉時代』
 『丹後諸庄郷保田数帳目録』
 『鉄湯船』は、鋳物師山河貞清によって正応3(1290)年に造ら
  れた物とされ、重要文化財に指定されています。
  成相寺の湯屋で湯船として使用されていたものとされていま
  すが、直接入るものではなく、沸かした湯を入れ「かかり湯」
  にするための物だったようです。
 『木造地蔵菩薩座像 平安時代造』
京都府指定文化財
 『本堂』は入母屋造りで正面は千鳥破風で飾られており、安永
  3(1774)年の建築と言われていて、京都府文化財に指定さ
  れている。
 『撞かずの鐘楼』は、400年もの前の慶長14(1609)年に造ら
  れた物です。、由来は、画像ページをご覧ください。
 『鎮守堂』 江戸時代。
 『孔雀文磬 1面 応永20(1413)年』
 『成相寺文書・制札6通4枚』
 『法華経 7巻 応永元(1394)年』
 『成相寺参詣曼茶羅 1幅 室町時代』
京都府登録文化財
 『金銅装笈1背 室町時代』
宮津市指定文化財
 『梵鐘 江戸時代』

境内には、「股のぞき」で有名な「傘松公園」からの道と、丹後国分寺方面からの道が有りますが、前者はバス専用(定期バス)道路の完全一車線で、後者は急勾配のものの、バスも通行可能な全舗装道路です。

古い物の多い丹後にはロマンがあり“伝説がかたる丹後王国”へ、是非一度お立ち寄り下さい。

平成22年7月



十八話 「古墳公園」

平成22年6月1日撮影

“古墳公園”です。

6月は「古墳公園」を取り上げました。

弊店から南へ“車で3分”位の所にある『与謝野町立古墳公園』は、国史跡の蛭子山(えびすやま)古墳と作山(つくりやま)古墳を整備した古代歴史公園で、大型前方後円墳(145m)をはじめ円墳や方墳など、4〜5世紀に隆盛した丹後王国を偲ばせるバラエティー豊かな古墳です。

この「古墳公園」は、京都府与謝郡与謝野町明石の国道176線沿いに有り、与謝野町(加悦谷)のほぼ中央に位置し古来より栄ていた事が、頷けます。
与謝野町(加悦谷)は京都府北部、日本海中央部に突き出した丹後半島の基部にあります。丹後と丹波をわける大江山山系を水源とした「野田川」は宮津湾に流れ、その砂は「特別名勝天橋立」を作ったとされています。加悦谷平野を流れる野田川は全長15.9kmと短く、大江山山系に奥を限られた袋のような地形になっています。
野田川水系は段丘地形の発達した谷で、低位段丘には集落が、中位・高位段丘には古墳(現在でも1,400基をこえる数の古墳を確認している)が多く点在していて、弥生時代以来の農耕社会の生産基盤となっていたようです。

昭和4年の第一次両古墳発掘調査後、昭和7年には国史跡指定を受け、第ニ次調査は平成元年から行われて、この公園は平成4年に完成したものです。

古くから人々が住み続けた歴史の町で、豊かな自然と長い歴史にめぐまれた町を一望できる位置に、日本海側三大古墳の一つ史跡蛭子山古墳と作山古墳はあります。

古い物の多い丹後はロマンがあり“伝説がかたる丹後王国”へ、是非一度お立ち寄り下さい。

平成22年6月



十七話 「雲岩公園」

平成22年4月30日撮影

“雲岩公園”です。

5月は「雲岩公園」を取り上げました。

弊店から西へ“車で3分”位の所にある、『雲岩公園』は、「ツツジ」の綺麗な、歴史有る雲岩寺の整備された公園で、現在の京都国立博物館の玄関を飾る古石燈籠が有った所です。

雲岩寺の略記は、天平年間(750頃)法道仙人に依り修験道場として開基されたと伝えられています。
後、真言宗雲巌寺として鎌倉時代より七堂伽藍を備えてから大に繁栄して、毘沙門信仰の信者が近在はもとより遠来の参詣で賑わいましたが、大永五年(1525)兵火により一宇を残して全山灰に帰したものの、諸仏像は持ち出し洞窟に入れて難を逃れました。
時は、戦国の世から織田信長の時代へ移行して行く中で、宗の寺院は復興出来なかったものと思われます。その後、江戸期になり貞享三年(1686)宮津国清寺より傑僧黙潭和尚が入山し、臨済宗妙心寺派に改宗岩屋山雲岩寺となり、復興に努力されたが諸仏像を修理するのが精一杯で堂宇の建立迄は出来ませんでした。
往時の金堂跡にある“宝篋印塔”は、永仁ニ年(1294)の建立で高さ3m36cmあり丹後地方最大の物であるとされています。
又、天王堂に安置してある地蔵菩薩座像(鎌倉期)及び毘沙門天像(室町期)並びに、持国天立像と増長天立像(共に南北朝期)は、与謝野町文化財に指定されています。
寺は衰微したが現在は山ツツジの名所で、京都百景の一つとして春は賑わっています。

丹後地方には、鎌倉時代後期の遺品が集中していて、京都国立博物館の玄関を飾る古石燈籠も「鎌倉時代後期」の作で、石燈籠としては日本最古の物の一つなのだそうです。花崗岩(御影石)で、八角形の凝った物です。

古い物の多い丹後はロマンがあり“伝説がかたる丹後王国”へ、是非一度お立ち寄り下さい。

平成22年5月



十六話 「穴穂部間人皇后伝説」

平成22年3月31日撮影

“穴穂部間人皇后母子”上陸の地です。

4月は「穴穂部間人皇后伝説」を取り上げました。

弊店から北へ“車で40分”位の所にある、『穴穂部間人皇后伝説の“間人地区”』は、京丹後市丹後町の“中心的”な地域です。

京都府京丹後市丹後町間人の“間人”は「たいざ」と読みますが、この様に読める人は、丹後人以外そう多くはおられないでしょう・・・。
この読み方の由来は、聖徳太子の生母「間人(はしうど)皇后」が、大和政権の蘇我氏と物部氏との争乱を避けるために身を寄せた地と伝えられています。この地を去る際、皇后は自らの名をこの地に贈ったが、住民たちは「恐れ多くも呼び捨てに出来ない」と、皇后が退座(たいざ)した事にちなんで、漢字はそのままで「たいざ(間人)」と言う呼び方にしたとされています。
穴穂部間人皇后は、31代用明天皇の皇后で、587年用明天皇が崩じると、都での「蘇我・物部両氏」の権力争いを逃れ、当時曽我氏の領地であったと考えられる丹後に数年滞在した。その時丹後に上陸した場所が、「大浜の里」と呼ばれた今の「後ヶ浜」であったと言われています。

この「後ヶ浜」には、大きな「穴穂部間人皇后母子像」が建てられていて、すぐ前には周囲1kmと言う巨大岩「立岩」があり、周辺には他にも「奇勝・奇岩」が多く、観光にも「道の駅・温泉・古代の里資料館」があり、魅力的な地域です。
また、間人港は北前船の寄港地としても栄え、現在ではズワイガニ「間人ガニ」は有名です。

すべての伝説には史実とロマンがあり、伝説がかたる丹後王国へ、是非一度お立ち寄り下さい。

平成22年4月



十五話 「静御前伝説」

平成22年2月28日撮影

“静御前”誕生の地跡です。

3月は「静御前伝説」を取り上げました。

弊店から北北西へ“車で50分”位の所にある、『静御前伝説の“磯地区”』は、京丹後市網野町の“風光明媚”な、仄々とした漁側の村です。

「静御前伝説」は、全国に数多くありますが、その地域が『間違いない』と後世に伝えていくのも、その地域に「誇り」を持っているからでしょうね。

静御前は、源義経とともに「平安時代末期〜鎌倉時代初期」の激動の時代に生きた人物です。

丹後の国“磯”で禅師の娘として生を受けた“静”は、6歳で父を亡くしそのまま母と共に上京し、京の地で巧みな舞と美しさで“静”は指折りの白拍子に成長する。源義経はそんな“静”に、心引かれ「側室」とする。
文治元(1185)年、義経が兄の頼朝と対立し京を落ちる、“静”は捕らえられ翌年に「磯禅師と静の母子」は鎌倉に送られる。この地で義経の子を生むが男子であった為、頼朝に殺される。
“静”は失意のうちに、禅尼となった母(磯禅師)とともに京に帰されその後、故郷(現在の京丹後市網野町磯)に戻り、生家跡に小さな庵を造り、この丹後の地から義経の無事と、愛児の冥福を生涯祈り続けたと言われています。

静御前は二十余歳という若さでこの世を去ったとされていて、「静神社」に静御前の木彫とともに、今も祀られています。

磯地区に行くには、「東の浅茂川からと、西の浜詰からのコース」が有りますが、東の浅茂川からは平成22年3月24日まで、通れませんので御気お付け下さい。

すべての伝説には史実とロマンがあり、伝説がかたる丹後王国へ、是非一度お立ち寄り下さい。

平成22年3月



十四話 「小野小町伝説」

平成22年1月31日撮影

“小野小町”の墓です。

2月は「小野小町伝説」を取り上げました。

弊店から北東へ“車で20分”位の所にある、『小野小町伝説の“五十河”』は、京丹後市と与謝野町・宮津市の境にある“鼓ヶ岳”と、『ガラシャ夫人の“味土野”』に近い標高620mの“高尾山”の、麓にある小さな美しい仄々とした集落です。

古い歴史をもつ“丹後”は、『天の橋立・成相寺他』多くの史跡や、有名人が出ています。
小野小町もその一人で、老いてなお一人で旅するのも、なにか深いわけが有りそうですね。

絶世の美女としても名高い小野小町は世界の三大美女とも言われ、平安時代前期9世紀の女流歌人で「六歌仙・三十六歌仙」の一人、百人一首は有名ですね。

「小野小町伝説」は色々な説がありますが、ここではこの説( http://kinmirai.hp.infoseek.co.jp/0118.htm)を簡単に紹介します。“小野小町”が開墓として建立された曹洞宗『妙性寺』に伝わる、『妙性寺縁記』は、江戸時代後期に妙性寺第三代住職の「雲騰民龍」が記録したものです。

ある日小町は、天橋立をめざして都から旅にでます、福知山まで来た時に「上田甚兵衛」と言う人に出会います。身分を明かした小町は、彼の住む「五十河」に行くことになりました。
その後、小町は「天橋立・文殊堂・成相寺」などを参詣したいと、五十河を出発します。
天の橋立の阿蘇海へ越える長尾坂まで来た時、思いがけずに腹痛を起こして動く事が出来なくなってしまいました。
やむを得ず、参詣は次の機会にと「上田甚兵衛」に背負われ、五十河に戻りますが亡くなったとの事です。

滞在中に小町は、この地に多かった火事で困っている村民たちに、当時の地名「五十日」を『「五十河」に変えたらよいでしょう』と教え火事を鎮めた他、女性が安産できるようになった恩人とされています。

また、小町は丹後水軍の血筋とも言われ、小野氏の荘園がこの「三重郷五十河」の地にあったとの説が有ります。

すべての伝説には史実とロマンがあり、伝説がかたる丹後王国の謎は多いです。

平成22年2月



十三話 「野村監督」

平成22年1月5日撮影

野村監督の育った家。

正月は「野村監督」を取り上げました。

野村克也(のむら・かつや) 野球評論家。パリーグの楽天前監督。昭和10年に京都府で生まれ、府立峰山高校から29年にテスト生から南海に入団し、2年後には正捕手に定着する。
32年には本塁打王を獲得し、40年には戦後初の三冠王に輝くなど優れた実績を残し、45年監督に就任する。
平成2年にヤクルト監督に就任し、9年間で3度の日本一を含む4度のリーグ優勝を果たした。
18年楽天監督に就任し、昨季は球団史上初のクライマックスシリーズ進出を果たしている。
監督通算成績は1565勝1563敗76引き分け。

弊店から北へ車で“30分”位の所にある、「野村監督」が育った地(現在の京都府京丹後市網野町網野)は、砂浜(海岸)にも近くて自然豊かな土地柄です。

この日本海は、夏は海水浴客も多く“静かで穏やかな澄んだ「海」”で『優しい』のですが、冬は人を寄せ付けない“荒く激しい吠える「海」”は『厳しい』の一言で、粘り強い野村監督の様でもありますね。

野村監督を知らない丹後人はいないくらいですが、中でも当時(丹後の野村)を知る人は、「とりあえず、良く体を使い、良く頭を使う人だった」、「かわった動きで、素早く、良く目立つ人だった」と、異口同音に「幼少」の頃から「人並はずれた」人物だったと聞きます。

丹後なまり丸出しで「記者を悩ませ」、独特の「語り口と間」の『ぼやき』は、天下一品ですね。

父親は野村監督が3歳の時満州で戦死する。母は看護婦だったが病弱で、食料品店を手伝って生計をたていた。兄と共に新聞配達をして、母を助ける「苦労人」でした。
お兄さんも良く出来た人で、自分の大学受験を断念して、峰山高校に進学させたと言われています。

人情深い野村監督の性格も、このような経験待遇からの物なのでしょうね。

平成22年1月



十ニ話 「羽衣天女伝説」

磯砂山山頂です。

12月は「羽衣天女伝説」を取り上げました。

弊店から西北西へ“4km”位の所にある、「羽衣天女伝説の山“磯砂山”」は、丹後と但馬の境に位置して、標高661mの眺めが美しく“天の橋立・久美浜湾・大江山・等”の絶景パノラマな山です。

磯砂山は一等三角点の山で、見晴らしの良いのも頷けますね。
下記は詳細です。

 基準点コード:TR15335205301
 北緯:35度32分54秒.7035
 東経:135度02分17秒.1896
 標高:660.95m
 本点
 20万図:宮津、5万図:宮津、2.5万図:四辻

「羽衣伝説(はごろもでんせつ)」は、日本各地に存在する伝説ですが、最もふるい記述があるのが『丹後国風土記』なのだそうです。

丹後の“三市ニ町”では近年「観光資源の発掘とPR」の為、『丹後七姫』として広めています。
羽衣天女伝説もその一つで、三話で紹介しました「安寿」、五話の「細川ガラシャ」、六話の「乙姫」と、他に「穴穂部間人皇女・小野小町・静御前」で、丹後と深い関係があったとされています。

丹後の「羽衣天女伝説」は、
昔、磯砂山の山麓で八人の美しい天女が水浴びをしていました。そ の様子をそばで見ていた老夫婦が一人の天女の羽衣を隠してしま った為、その天女は天に還ることが出来なくなってしまい、やむなく 老夫婦の養女として暮らす事になりました。
天女は「稲作・養蚕・酒造」の技術を伝え、老夫婦はすっかり裕福に なりましたが、ある日老夫婦は「汝は我が子に非ず」として天女を追 い出してしまいました。
『天の原ふりさけみれば霞立ち 家路まどいて行方しらずも』
と詠って比治の里を退き村々を遍歴の果てに、舟木の里の奈具の 村にやって来ました。そして『比処にして我が心なぐしく成りぬ(わた しの心は安らかになりました)』と言って、この村を安住の地としたと 言われています。
比処で終焉を迎えた天女は、村人たちよって『豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)』として祀られました。


この祀られている神社が、現在の「京都府京丹後市弥栄町船木奈具」で、官幣小社の奈具神社です。
天女が水浴びをしたとされる「池」も、登山途中にあり(現在では沼になっていますが)、ロマン溢れる地域です。

すべての伝説には史実とロマンがあり、伝説がかたる丹後王国の謎は多いです。

平成21年12月



十一話 「出雲大社 巖分祠」

平成21年10月31日撮影

11月は「出雲大社 巖分祠」を取り上げました。

弊店から南へ“車で3分”の所にある「出雲大社 巖分祠」は、与謝野町を代表する名所の一つで、町中から少し入った山間の静かな所にたつ立派な神社です。

「貴宝殿・後藤神社・白雲宮」の三社からなり、貴宝殿には「大国主大神・富貴宮(巖の道教祖)・万霊」を御祭神として、後藤神社は「天地創造の神・天御中主大神・縁結びの神・大国主大神」をお祀りされ、「この花教祖白雲宮」を御祭神とする白雲宮の、三社です。

官幣大社の出雲大社から分祠されたのは、以外に新しく昭和35年の事で、伝統を引き継ぐ建物は「白壁に鮮やかな朱の柱」が引立つ“貴宝殿”で、主に「不老長寿」の御利益があるとされています。

古くからある後藤神社は「縁結び」にご利益があるとして町内外を問わず広く信仰を集め、結婚式も執り行われて多くのカップルが生まれています。

白雲宮は御本殿を設けず、「お山」を御神体として拝するお宮で、その境内から湧き出る“ご神水”は古来より「病気平癒と長寿」にご利益が有ると言われています。

また、「幸福の道」と名付けられた参道を登ると、足や腰が強くなると喜ばれて、観光バスやマイカーで多くの参拝者を集めています。

丹後には、この様な新しい貴宝殿の“名所”も生まれております、是非一度お立ち寄り下さい。

平成21年11月



十話 「大江山伝説」

平成21年8月31日撮影

9月は「大江山伝説」を取り上げました。

弊店から望める「大江山連峰」は、平成19年「丹後天橋立大江山国定公園」として全国で62番目に指定された「美しい山」で、丹後半島の南に位置し、西から赤石ヶ岳、千丈ヶ嶽、鳩ヶ峰、鍋塚、鬼の岩屋、杉山、赤岩山、由良ヶ岳と、標高600メートルから800メートルの稜線が東西に連なっている連山地形であり、この地域を代表する山です。

丹後地方には鬼退治の名で呼ばれる伝説・伝承が大江山を中心に数多く残っています。そのなかで、「源頼光による酒呑童子の討伐伝説」は有名です。
過去2000年、丹後はいくたびも独立国の様相をていしていたが、そのつど大和から討伐軍が丹後に派遣された。丹後では“出雲族・海人族・大和族”がいくたびとなく闘争をくりひろげたが、概観的には大和族が常に勝利していた。しかし実質的勝利はつねに海人族の手に帰した。
勝者は神となり、敗者は「鬼や蜘蛛・虫」等の名で呼び捨てられた。

一説に「酒呑童子」の祖・伊吹大明神は、もと出雲国の住人で八岐大蛇(やまたのおろち)と呼ばれたが、出雲を追われ伊吹山中に逃れた。酒呑童子は、伊吹大明神の子孫と伊吹山麓の長者・須川殿の娘(玉姫)との間に生まれた子供(一説に弥三郎)です。酒呑童子は比叡山に稚児に出されるが生来の大酒癖が災いして山を追われ、その後母(玉姫)のすすめも有り「大江山」に居を移す。

酒呑童子と平将門が同一人物である証拠はないが、酒呑童子を平将門と同様の反体制集団の一員としてとらえていたとする説もあり、大江山の北原は「平家の落人」によって開かれた、「隠田百姓村」と言われています。

酒呑童子伝説にも諸説あり、一説を簡単に纏めると下記の通りです。

むかし大江山には鬼が住み、夜なよな都の姫をさらった。池田中納言・国隆の姫もさらわれ、池田中納言が陰陽師・阿倍晴明に占わせると、酒呑童子の仕業と判明した。中納言が一条天皇に奏上すると、帝は源頼光を呼んで鬼退治を命じた。
源頼光一行は、細谷川で血衣を洗う上臈から城内の様子や道順を聞き、千丈ヶ嶽の鬼の岩屋に着く。
源頼光は持参した神酒(神便鬼毒の酒)を酒呑童子らに振る舞い、その奇特をもって童子たちを討伐し、婦女らを救い都に凱旋したと言う。


福知山市大江町の駅には「全国の鬼瓦」が集められ、大江山の上り口には「酒呑童子の里」が作られ「鬼文化研究所・日本の鬼の交流博物館・大江山鬼瓦工房・体育館・テニスコート」が整備されていて、「大江山青少年グリーンロッジ」では食事も出来ます。

大江山登山口には古い「鬼嶽稲荷神社」が有り、社伝によれば「四道将軍・丹波道主命」がこの地に赴任したとき、父の日子座王の遺跡をたどり、この山上に神殿をたて倉魂命を奉斎したのが始まりとされています。弘化5年(1848)、伏見稲荷本社から分霊を勧請し、「正一位鬼嶽稲荷大明神」という神号を授けられたという古記録も残っています。

多くの“丹後伝説”がある「謎の多い丹後王国」に、お立ち寄り下さい。

平成21年9月



九話 「元伊勢籠神社」

平成21年7月31日撮影

8月は、天照皇大神は11代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は21代雄略天皇の御代に、それぞれ伊勢にお遷りになるまで、この籠神社(それまでは、与謝宮と言われる)でお祭りされていた、「元伊勢籠神社」を取り上げました。

弊店から東へ車で約20分くらいの所に有る籠神社(丹後の国一ノ宮)は、「特別名勝天橋立」の北側に位置し、その昔は当神社の境内であり参道でもあったと言われています。

神代の昔、天にあった男神イザナギノ大神が地上の籠宮の磐座(社殿建築以前の太古の祭場)に祭られていた女神イザナミ大神のもとに通うため、天から大きな長い梯子を地上に立てて通われたと云われます。
すると一夜梯子が倒れてしまい、それが天橋立となったと伝えられていて、これは人間の心が純朴で素直であった古代には、「神と人・天と地上」とは互い往き来でき、天橋立は「神と人・男と女」とを結ぶ愛の懸け橋と信じられていたようです。

この籠宮(このみや)“古称吉佐宮(よさのみや)”をお祭りする「海部宮司家」は、古来海部直(あまべのあたえ)と呼ばれ、丹波国造としての伝統を持ち、現當主は八十ニ代目にあたります。
宮司家が神社の始まり(神代-2500年程前)以来連綿として御祭神の血脈一系で奉仕しているのは希少で、数々の「国宝・重文」も秘蔵されています。

社殿の様式は伊勢神宮と同じ唯一神明造で、古式の心御柱や棟持柱があり、特に高欄上の五色(青・黄・赤・白・黒)の座玉は伊勢神宮御正殿と、当宮以外には拝されないもので、神社建築として最古の様式と高い格式を表しています。

多くの“丹後伝説”に少なからず関わりの有る「海部直」も、丹後王国の謎でその思いは、心ときめく楽しいものです。

平成21年8月



八話 「与謝蕪村」

蕪村の母「げん」のお墓です。
平成20年撮影

7月は、江戸時代中期に「絵画・俳句の両面」で活躍し、近世の日本文化史上屈指の人物となった、「与謝蕪村」を取り上げました。

わが町「与謝野町」は、俳人与謝蕪村(よさぶそん)の母親の「ふるさと」と伝えられています。
蕪村の母「げん」のお墓は、弊店から南へ車で10分くらいの所にあります。

蕪村自身は摂津国毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)の出身といわれていますが、地域の言い伝えによれば、蕪村の母とされる「谷口げん」は丹後の国与謝(よざ)村(現在は与謝野町与謝)の農家に生まれ、出稼ぎ先の毛馬村で蕪村をもうけたといわれています。
その後与謝村に戻った母と共に蕪村も少年時代を当地で過ごしたとのことです。しかし蕪村が13歳の時、げんは32歳の若さで亡くなったようです。
現在でも町内には、「げん」が眠ると伝えられている墓が残っています。

母の面影と少年時代の原風景を求めたのでしょうか?蕪村は39歳の時「宝暦4(1754)年」より3年を過ごした丹後滞在では、俳諧の修行よりもむしろ画道の精進に重きをおいたようです。この間に、多くの俳句や絵画を残しています。

宝暦10(1760)年頃からそれまで名乗っていた「谷口」姓を改め「与謝」姓をなのるようになりました。
これは母親の出身地にちなんで名乗ったとも、ちょうどこの頃に娶った妻が与謝地方の出身あった為、とも言われていますが定かではないようです。

左の画像で、写真右が蕪村の母「げん」のお墓です。何が彫ってあるのか、風化でもう全く読めませんでした。
お恥ずかしい話実は前からお墓があるのは知っていましたが、何処にあるのかは知りませんでした。墓地ではなかったのにもびっくりしました。あったのはこの写真の二基だけでした。
このお墓を管理をされている谷口さん? ありがとうございました。とても気さくな話し上手方でした。またお墓参りに行きたいと思っています。

近くにお寄りの際、もし頭の片隅に蕪村のお母さんのお墓があったなと記憶があれば参られたらいかがでしょうか?


平成21年7月



七話 「与謝野礼厳」

平成21年5月31日撮影

6月は、「与謝野礼厳」を取り上げました。

与謝野鉄幹の父で、現在の財務相の与謝野馨氏は曾孫にあたる「与謝野礼厳」のお話です。

「与謝野礼厳」の誕生の地(現在の京都府与謝郡与謝野町字温江)へは、弊店から南南東へ車で約10分の所です。

礼厳は、文政6(1823)年9月13日に与謝郡温江村(現与謝野町)の、江戸初期から農家を営む代々大庄屋の細見儀右衛門の次男として生まれ、明治31年8月17日(1898)寂。法名礼厳、号尚絅、童名長蔵、幼名儀助、元服後儀十郎。

13歳で加悦村の西本願寺末寺浄福寺の住職禮道の二男となり、仏門に入り修業する。
幼少から国書、和歌、儒仏の学を好んでおり、弘化2年4月京都に上りて西本願寺の学林に懸席し、同年5月西本願寺に於て得度する。国学・和歌を八木立礼に学び、京都西本願寺学林卒業後は同別院願成寺住職となる。

幕末には、薩摩藩の歌人を通じ「小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵・等」諸氏と交わり、尊攘派の僧として国事に奔走し、明治になって「与謝郡の出身」ということから「與謝野」姓を名乗るようになりました。

維新後は小学校開設の必要性を説き、また京都に療病院を開くなど教育衛生にも努力した、激動の幕末から明治を生き抜いた「僧であり歌人」です。

息子の与謝野鉄幹と晶子にも大きな影響を与え、鉄幹の次男「与謝野秀」は外交官として活躍し、東京五輪事務長を歴任する。秀の長男の「与謝野馨氏」は衆議院議員で、現在は財務相として活躍中ですね。

与謝郡出身という事から、旧姓細見を与謝野姓に変えた「与謝野礼厳」ですが、「与謝野鉄幹・昌子」もあり、現在の我が町名が「与謝野町」となったのも、興味深い事実です。

平成21年6月



六話 「浦島太郎伝説」

平成21年4月29日撮影

5月は、「浦島太郎伝説」を取り上げました。
日本各地に伝わる「龍宮伝説」の一つ、京都府伊根町本庄の「浦島太郎伝説」のお話です。

浦島太郎をご祭神として祀っている、京都府伊根町本庄の宇良(浦島)神社へは、弊店から北東へ車で約50分の所です。

現在の一般的に語られている「あらすじ」は、おおむね下記の通りです。
. 漁師の浦島太郎は、子供が亀を「いじめ」ているところに遭遇する。亀を助けると、お礼に龍宮城へ招待され「乙姫」の歓迎を受けました。
数日後、帰る意思を伝えると、乙姫から「決して開けてはならない」と「玉手箱」を渡される。
亀に連れられ浜に帰ると太郎の知人は誰もいなく、寂しさから玉手箱を開けてしまいます。煙を浴びた太郎は老人の姿に変化していまいました。
龍宮城で過ごした日々は数日でしたが、地上では700年が経っていました。

丹後に伝わる「浦島太郎伝説」が日本最古のもので、『丹後国風土記』にある「筒川嶼子、水江浦嶼子」が原型とされています。ほぼ同時代に書かれた『日本書紀』『万葉集』にも記述が見られますが、『丹後国風土記』逸文が内容的に一番詳しいとされています。

宇良(浦島)神社のご祭神は、「浦島太郎(浦嶼子)を筒川大明神」として祀られていて、創祀年代は淳和天皇の天長2(825)年7月22日とされ、醍醐天皇延喜5(905)年選上の「延喜式神明帳」に、宇良神社(うらのかむやしろ)として所載されている由緒ある式内社です。

浦島伝説ゆかりの社として非常に有名な「宇良(浦島)神社」には、玉手箱や浦嶋縁起絵巻(国指定重要文化財)など、伝説の宝物が残されています。
現在の宮司 宮嶋さんは、とても気さくな人望あるお人柄の方です。丹後にお越しの節は、お立ち寄られては如何でしょうか。

伝説には史実とロマンがあり、多くの伝説がかたる丹後王国の謎は多く、心ときめく楽しいものです。

平成21年5月



五話 「ガラシャ夫人」

平成21年3月29日撮影

4月は、明智光秀の三女「ガラシャ夫人(細川玉子)」です。

弊店から北々東へ車で約60分のところに有る、「ガラシャ夫人隠棲地」に行って来ました。
丹後半島のほぼ中央に位置する、奥深い山中の中腹にある見晴らしの良い場所で、如何にも「隠棲地」らしい・・・土地柄。
現在の京丹後市弥栄(やさか)町味土野(みどの)で、昭和初期には約40戸が現在では3戸に減り、5人が暮らしています。その昔「平家の落ち武者」が移り住んだとの、言い伝えもあります。

戦国時代に翻弄され、数奇な運命に彩られた玉子ですが、戦乱の世に咲いた「一輪の花」として、現代に語り継がれています。

宮津藩主だった細川忠興は、明智光秀の「本能寺の変」に誘われるがこれを聞かず「玉子を守る為、離別し家臣と侍女を付け味土野の地に隠棲」し、羽柴秀吉軍となり光秀と山アで戦った。
愁思のうちに2年の月日をこの地で過ごすが、秀吉はこれを憐れみ「忠興との復縁」を許し、忠興は再び妻として迎えた。

多くの試練は玉子の心に変化があったのでしょう、1587(天正15)年に心の拠り所を求め、キリスト教の洗礼を受け「細川ガラシャ」となる。3人の子を授かり平穏な日々でしたが、1600(慶長5)年の「関が原の戦い」で東軍に付いた忠興の留守中に、石田三成の「人質としての大阪城入城要請」を断った為、大阪細川邸に於いて壮烈な最期をとげました。

忠興は大変な戦上手で政治家としても優れていた為、乱世からも細川家を守れたのでしょう、「関が原の戦い」で勝利し「宮津藩から豊前小倉藩初代藩主となり熊本藩細川家初代」で細川家の基を築きました。
元総理大臣の「細川護熙氏」は「細川忠興の子・熊本藩主細川忠利から数えて15代目」で、丹後人にすれば興味深いです。

京に近い丹後は、歴史的にも面白い夢のある土地柄です。

平成21年4月




四話 「除福伝説」

平成21年2月9日撮影

3月は、除福伝説をもつ地は日本全国20数箇所におよびますが、その中の一つ京都府伊根町新井崎の「除福伝説」を取り上げます。

弊店から北東へ車で約40分のところに有る、新井崎神社は除福をご祭神として祀っています。

紀元前221年、帝国の基礎を築いた秦王(始皇帝)は「やり残した仕事」が多く、あとしばらくの命がほしかった為、始皇帝は「東海の地の不老薬」の探索を、「除福」に命じ三千人が百隻もの船に分乗して、中国連雲港付近を船出したとされています。
除福が京都府伊根町新井崎の地で求めた「神薬」とは、「九節の菖蒲と黒茎の蓬」とされています。
「九節の菖蒲」は現在は絶えたが、「黒茎の蓬」は現在も存在していて【画像DE】です。

すべての伝説には史実とロマンがあり、伝説がかたる丹後王国の謎は多いです。

平成21年3月



三話 「山椒大夫、安寿と厨子王伝説」

平成21年1月23日撮影

今回は、森鴎外の小説「山椒大夫」で有名な、「山椒大夫屋敷跡、安寿姫塚」を撮りました。

弊店から舞鶴方向へ車で30分くらいの所にある、宮津市由良の「山椒大夫屋敷跡、安寿姫塚」周辺は、宮津と舞鶴城下町の中間に位置し一級河川「由良川」が流れている地形で、古くから栄え「古墳」も多くあり「丹後王国」のロマン溢れる地域です。

小説「山椒大夫」の舞台は中世(天暦年間947〜956年)の頃で、【 高貴な身分の者が人買いにたぶらかされて長者に売られ、奴隷として辛酸をなめた後に、出世して迫害者に復習をする 】 と言う物語(説経「さんせう太夫」)を素材に書かれたとされています。

安寿と厨子王が、「汐汲み・柴刈」にと冷酷な苦難の送ったとされる「山椒大夫屋敷跡」や、悲運の最期をとげた「安寿姫塚」が、語り継がれています。

「山椒大夫」と言う名前については諸説あり、柳田国男氏の 【散所の大夫】 がいつしか物語自身の名になったと言う説、林屋辰三郎氏の散所を統括する 【散所の長者】 と言う説、地元では山椒大夫を土地の 【開発長者】 とする伝承もある。
いずれにしても、いまだ定説がないといったのが現状でしょうか。

詳しくは、下記を検索してください。

http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn15.html#sansyodayu1

平成21年2月



ニ話 「石川五右衛門」

平成21年1月6日撮影

今回は、義賊で有名な「石川五右衛門」の出生地「伊久知城跡」を撮りました。
弊店から東へ500mの所に有るに城跡が、「石川五右衛門」の出生地であるとされる一説です。

この伊久知城は、丹後の守護大名一色義俊の家老で、石川左衛門尉秀門の居城でした。ところが天正十年の秋、豊臣秀吉の命を受けた細川幽斎の手よって、石川左衛門尉秀門は謀殺され、伊久知城も落城する。

この時、ニ男の石川五良右衛門と言う人が落城と共に姿をくらまして、後に京都に出て石川五右衛門となったと言う説があり、有力視されています。
この石川五良右衛門の姉で「坂根」と言う家に嫁いだ「石川菊寿」の子孫が現在もおられ、弊地には「坂根姓」が多いです。


フィクションに登場する五右衛門は、貧しい庶民に金をわかち与える「義賊」としても描かれています、大阪城に忍びこむなど「関白」の怒りをかい、京都の河原において釜煎りで処刑されました。
ここから昔の大きな釜の形をした風呂を丹後では、「五右衛門風呂」と言いご年配の方は使われていたと思います。

丹後は、京に近く歴史的に「ミステリアス」な事が多く、ロマン溢れる地域です。

平成21年1月



一話「平智地蔵」

平成20年12月1日撮影

今回は「平智地蔵」を撮りました。

弊店から北へ1kmの京街道で平地峠(大宮町常吉)に有る、有名な「平智地蔵」のお話です。

京都府下で一番大きいとされ、高さ3.5mで台座を含むと5.05mです。重さは4.3トンで台座を含むと5.1トンあります。
峰山鱒留村の名石工「長谷川松助」によって天保4年に完成しました。
謎めいた建立の経緯は諸説あり、一説には「峠の往来安全を願った」との説と、有力なもう一説は・・・。
文政5年の「百姓一揆」で中心的な役割をはたした「吉田新兵衛 他」の人達は、文政7年宮津藩によって処刑されました。悪政を正したこの人達を供養する為の「建立」だったが、「意図的に隠す為」上記の説を常吉の人々が広めたと、言われています。

新兵衛さん達が「寒かろう」と、毎年11月23日には大勢の人達で「蓑」を掛け”冬支度”がされます。今年も、報道関係者が7社取材されていました。
公園には駐車場も整備され、良く手入れされていて綺麗な花も供えてありました。


平成20年12月


詳しくは、お気軽にお問い合わせ下さい。


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